ログインリュゼリアは少しだけ目を瞬かせた。意外だったのだろう。彼がそんなふうに、自分の無力をそのまま口にするのは珍しい。「旦那様」「医師のほうが、正しい」「ええ」「アイダのほうが、お前の呼吸を知っている」「ええ」「俺は」 そこで言葉が止まる。続きは簡単だったはずなのに、喉の奥で妙に重かった。「俺は、何もする資格がない」 リュゼリアはしばらく黙っていた。 そして、ゆっくりと首を振る。「資格がない、という言い方は少し違うわ」 その返答が意外で、ヴィルレオは思わず顔を上げる。「違う?」「ええ」 熱のあるせいか、声はかすかに掠れている。それでも響きは穏やかだった。「資格がないというより、旦那様は……まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」 その言葉は、どこか静かな慈悲を含んでいた。「苦しみ方?」「ええ。咳のあと、どれくらい待てば落ち着くのか。水はすぐのほうがいい時と、少し置いたほうがいい時があること。熱が上がる前に指先がどう冷たくなるか。そういう、小さなこと」 リュゼリアは細い息を吐く。「それは、一緒にいる時間の中でしかわからないものだから」 時間。 またその言葉だ、とヴィルレオは思う。 失った時間。 届かない謝罪。 今さら遅いのです。 そして今、彼女はまた時間のことを言う。「だから」 リュゼリアは小さく目を伏せた。「いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ」 責めるのではなく、説明するような声だった。 その説明のしかたが、かえって痛い。 彼女はもう怒ってもいない。ただ、自分と彼のあいだに何が足りないのかを、静かに言葉にしているだけなのだ。「……そうか」 ヴィルレオは低く答えた。 そうだ。 彼は彼女の苦しみ方を知らない。咳の音を聞いたことはある。熱に浮かされる顔も見た。だが、それは断片だ。断片を見て、知ったつもりでいただけだ。本当には何も知らなかった。だから、今さら手を伸ばしても、その手はいつも少し遅く、少し強すぎる。 何もできないのではない。 何をすればよいか、まだ知らないのだ。 そして知るためには、彼女が許す距離で、許す速さのまま、時間を積むしかない。 その時間さえ与えられる保証はない。 けれど、資格がないと自分を切り捨てて立ち去ることもまた、彼女の言葉を聞かずに結論を出すことになるの
◇ その日の午後、リュゼリアは少しだけ熱を上げた。 庭の時間が長すぎたわけではない。医師も「この程度なら」と首を振った。むしろ、朝からの疲れが夕方に出たのだろうという見立てだった。咳も少し強く出て、彼女は早めに寝台へ移された。 ヴィルレオは居間の隅に立ち、医師が胸の音を聞き、アイダが湯を替え、ミナが濡らした布を運ぶ様子を見ていた。 その輪の中に、自分の役割がない。 それは当然だった。医師の手のほうが正確で、アイダのほうが彼女の息遣いを知っていて、ミナのほうがこの館の温度をよく理解している。彼はただ壁際に立ち、咳の合間に細く息を吸う彼女の姿を見ることしかできない。 何かをしたいと思う。 水を渡すとか、背を支えるとか、暖炉の火を足すとか。 けれど、どれも“できること”ではあっても、“やるべきこと”ではない。すでに誰かがもっと適切にやっている。そこへ今さら自分が手を伸ばせば、彼女にも周りにも余計な気を使わせるだけだ。 手を伸ばす資格がない、とはこういうことなのだと、ヴィルレオは改めて思い知る。 資格というのは、身分や関係性のことではない。 その人の苦しみに近づいてよいだけの時間を、自分がどれだけその人と共に積んできたかの問題なのだ。 アイダはそれを持っている。 ミナも、医師も、この数日で少しずつ積んでいる。 自分はどうだ。 夫でありながら、その時間をわざわざ空白のまま残した男だ。 だから、いざ触れようとすると全部が遅く、全部が無理な動きになる。 リュゼリアが少し熱にうかされたような目で窓のほうを見ている。頬は白く、唇だけが乾いていた。アイダが匙で薬を含ませ、彼女はゆっくり飲み込む。胸が上下するたび、呼吸の細い音が聞こえる。 ヴィルレオはその音に、何もできずに耳を澄ますしかなかった。 公爵としてなら、医師を増やすことも、薬を取り寄せることも、館の者へ命じることもできる。 けれど今ここで必要とされているのは、権力でも金でもなかった。 彼女の呼吸が乱れた時、何をせずに待つべきかを知ること。 苦しさを大きく扱いすぎず、それでも見落とさないこと。 そういうものだけが、ヴィルレオには決定的に欠けていた。 ◇ 夜、熱は少し落ち着いた。 医師は「今夜は大きく上がらぬでしょう」と言い、アイダと交代の侍女へ注意を伝えて下
「今日は、少し寒いわね」 リュゼリアが花壇を見たまま言う。「ああ」「でも、昨日より香りが濃い」「土のか」「ええ。陽があるからかしら」 ヴィルレオには、その差まではわからない。ただ、彼女がそう言うのならそうなのだろうと思う。「白のほうが開いてきたわ」「見える」「青は風に弱そう」「お前みたいだな」 思わずそう口にした途端、リュゼリアが一瞬だけ彼を見た。驚いたのかもしれない。あるいは、その言葉の不器用さに困ったのかもしれない。 ヴィルレオ自身も、自分で何を言っているのかわからなかった。青い花が風に揺れているのを見て、ただ、細く頼りなく見えるのに土へ根を下ろしている姿が彼女と重なっただけだった。「そうかしら」 ややあって返ってきた声は、ごく薄い笑みを含んでいた。「わたくしは、あんなにきれいな青ではないわ」「そういう意味ではない」「では、どういう意味?」 問われると、うまく言えない。 風が吹けば揺れる。揺れるのに、ちぎれずに立っている。そんなことをどう言葉にすればいいのか。「……弱そうに見えて、根はある」 ようやくそう言うと、リュゼリアはしばらく花壇を見ていた。「ええ」 やがてぽつりと答える。「そうでないと、ここまでは来られなかったでしょうね」 その一言は、自分で自分を褒める響きではなかった。むしろ、ようやくそこまで辿りついた疲れを含んでいるように聞こえた。 ヴィルレオはその横顔を見つめる。 頬はやはり白い。風が少し強くなるたび、肩がかすかに縮む。咳もまだ消えていない。ほんの少し立って歩くだけで息が乱れる。それでも、彼女はここにいて、自分の根でようやく立っているのだ。 そこへ、今さら自分が手を伸ばしていいのか。 頭では何度も否と答えが出ている。 だが、目の前で風が彼女の外套の襟を少しずらし、白い首筋が冷気へさらされた瞬間、ヴィルレオの指先は無意識に動いた。 伸ばしかけて、止まる。 たった数寸の差だった。 その手を、リュゼリアは見た。 正確には、動こうとして止まった、その一瞬を。 彼女の薄青い瞳が、彼の指先へ落ちる。 それだけで、ヴィルレオの胸の奥がひどく冷えた。 この手は、何をするつもりだったのだ。 外套を直すのか。 首筋を冷やすなと触れるのか。 どちらにせよ、それは王都で彼が一度もしてこなかっ
リュゼリアが粥をひと匙すくう。口へ運び、ゆっくりと飲み込み、それから小さく息を吐く。その一連の動きのどこにも無駄がない。少ない力で、少ない負担で、きちんと食べるための所作になっている。こういうところにも、彼女がこの別邸で少しずつ自分の身体と折り合いをつけ始めていることが見える。「今日は、庭へ?」 ヴィルレオが訊くと、リュゼリアはわずかに目を上げた。「先生が許してくだされば」「昨日より、少し疲れて見える」 言った瞬間、その物言いがまるで医師のようだと自分で思った。夫としての情ではなく、体調を管理すべき対象へ向ける声に近い。 リュゼリアも同じように感じたのかもしれない。ほんの一瞬だけ、目の奥にかすかな影が差した。「ええ。だから、無理はしないわ」「……そうか」 それ以上、言葉は続かなかった。 食堂の窓の外では、風がまだ少し冷たそうに低木を揺らしている。白と青の花壇は、ここからは見えない。ただ、そこにあることだけは知っている。 ヴィルレオは、自分がずっとリュゼリアの手元ばかり見ていることに気づいた。カップを持つ指。スプーンを置く指。ナプキンの端を押さえる指。そのどれもがかつて、屋敷の細部を整え、自分の不機嫌や体調の揺れまで吸収していた指なのだと思うと、胸の奥がざらついた。 触れたい。 今朝も、ふとそう思う。 手が冷えているのではないか。細すぎるのではないか。茶の温度は大丈夫か。 そんな小さなことでさえ手を伸ばしたくなる。 だが、彼女が今こうして落ち着いて食事をしている時間の中へ、自分の手だけが異物のように差し込まれる気がして、結局何もできない。 その無力さを、ようやく「当然だ」と思える自分がいた。 ◇ 昼前の診察のあと、医師は「今日は外気に当たるのは短く」と告げた。 昨日よりやや咳が残っていること、夜の眠りが浅かったこと、朝の熱がわずかに高めであること。その三つを理由に、庭へ出るならほんの少しだけ、日の高いうちに、椅子へ座ったままでと念を押す。 リュゼリアは素直に頷いた。 王都にいた頃の彼女なら、医師の言葉を受けつつもどこかで「でも」を探していたかもしれない。食堂へ下りる必要、返書、来客、帳簿。何かしら理由を見つけては、自分の身体のほうを後ろへずらしただろう。 いまは違う。 少しだけ残念そうな顔はしたが、その残念さ
翌朝、ヴィルレオは夜明けより少し前に目を覚ました。 眠れなかったわけではない。意識は何度か落ちた。だが、その眠りはどれも浅く、水面に浮かぶ薄い氷みたいに脆かった。まぶたを閉じても、昨夜のリュゼリアの声が、静かなまま何度も耳の奥へ戻ってくる。 今さら遅いのです。 怒っていたわけではない。 泣いていたわけでもない。 ただ、もう期待していないのだと、そう言っただけだった。 その穏やかさが、かえって鋭かった。 ヴィルレオは寝台の上で片腕を額へ乗せたまま、客室の薄暗い天井を見ていた。別邸の朝はまだ来ていない。窓の外には薄青い闇が残り、湖のほうからくる風が、閉じた窓を細く鳴らしている。暖炉の火はとうに落ち、部屋の空気は冷えすぎぬ程度に静かだった。 ここは王都の屋敷ではない。 大理石の廊下も、夜通し完全には眠らぬ使用人たちの気配も、遠くで響く馬車の音もない。別邸の朝は遅く、柔らかい。だからこそ、ひとりで目を覚ましている時間が長すぎる。 その長さの中で、昨夜からずっと同じことを考えていた。 触れたい、と思う自分がいる。 咳き込んだ彼女の背へ手を伸ばしたい。冷える夜には肩へ落ちるショールを整えたい。歩く時に少しふらつけば、先に腕を差し出したい。茶を取る指先が冷えていれば、自分の手で温めたくなる。 そんな衝動が、今さらになってひどく生々しくある。 だが、そのたびに同じところへ戻る。 資格がない。 資格、という言葉が正しいのかはわからない。夫なのだから、世間の形としては触れる資格などあるのだろう。けれど、彼の胸の内で立ち上がるその感覚は、もっと別の種類のものだった。 かつて触れてよかったはずの時間に、自分は触れなかった。 朝の頬にも、夜の寂しさにも、食卓で伏せられた睫毛にも、扉の前でためらう背中にも、何一つ触れようとしなかった。 触れるべき時に触れなかった男が、今さら遅れて手を伸ばしても、それは彼女にとって慰めではなく、ただの驚きか、あるいは重さにしかならないのではないか。 そう思うたび、腕の中で何かが鈍く冷えていく。 寝台を下り、ヴィルレオは窓辺へ歩いた。カーテンを少しだけ開ける。外はまだ薄闇だ。庭の輪郭だけが見え、南側の花壇は影の中に小さく沈んでいる。あの白と青の苗も、今は夜露を抱いて黙っているのだろう。 そこへ彼女がまた座るのは、陽が
公爵としての彼は、問題があれば手を入れてきた。 人を動かし、金を使い、命令を出し、結果を求める。それが責任だった。 だがリュゼリアの望む穏やかさは、命令で作れるものではない。 彼女が期待を取り戻すことも。 自分の言葉を信じることも。 再び未来を預けることも。 どれも彼が決められることではなかった。 それを待つしかない。 いや、待ったとしても、戻らないかもしれない。 その可能性ごと引き受けなければ、彼女へ何かを望む資格はないのだろう。 ヴィルレオは廊下の窓辺へ歩み寄った。 外には、夜の庭がある。 月の光は弱く、白と青の花壇はほとんど見えない。だが、そこに苗が植えられていることは知っている。 リュゼリアが自分の手で土へ触れたことも。 咲くところを見たいと思ったことも。 それが、彼女自身の「生きたい」という願いへつながったことも。 自分がするべきなのは、その苗を王都へ持ち帰ることではない。 無理に早く咲かせようとすることでもない。 ここで根を張ろうとしているものを、ただ傷つけずに見守ることなのかもしれない。 そう考えると、胸へ別の痛みが広がった。 見守るということは、近づけないことを受け入れることでもある。 彼女の隣へ座れなくても。 夫として扱われなくても。 何かを変えたと報告しても、喜んでもらえなくても。 それでも彼女が少し息をしやすくしているなら、その距離を壊してはならない。 ヴィルレオは窓ガラスへ手を置いた。 冷たい。 王都で、南へ向かうか迷った朝に触れた窓と同じ温度だった。 けれど、あの時とは違う。 あの時の彼は、会えば何かが動くと思っていた。 追いつけば、距離を縮められるのではないかと、どこかで期待していた。 実際には、会ったことで距離の深さを知った。 謝ったことで、謝罪が届かない場所を知った。 未来を変えると告げたことで、彼女がもう未来へ期待していないことを知った。 知るたびに、二人の距離はかえって明確になる。 それでも、知らなかった頃へ戻りたいとは思わなかった。 知らないまま、自分だけが夫だと思い込み、彼女の沈黙を従順さと取り違え続けるよりは、痛くてもこの距離を知るほうがいい。 問題は、その距離を知ったあとだ。 自分の寂しさを埋めるために、彼女を引き戻すのか。 それとも、彼女が







